「戦没者慰霊・平和祈念公園」構想と私の思い 

 

 八月のお盆が終戦記念日に当たり、毎年、天皇皇后両陛下のご出席のもとに、武道館で「全国戦没者追悼式」が行われることを、不思議と言えば本当に不思議な巡り合わせだと、私は以前から思っています。八月十五日は、日本の終戦記念日であるだけでなく、第二次世界大戦が終結した日でもあり、世界中で亡くなった数千万の戦没者・戦争犠牲者の霊を慰める日でもあります。仏教の怨親平等思想に立脚すれば、八月十五日は、敵・味方の区別なく、戦争に斃れていった犠牲者を追悼すると同時に、世界平和の実現を誓い合う日なのです。

 日本人だけでも三百万人以上とも言われる戦没者を追悼する日が、ご先祖を供養する盂蘭盆会に重なっているのは、天の配剤とも言うべき偶然でしょうが、七十年前の八月十五日に自らの声で放送された、「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す」という一節で有名な「終戦の詔勅」を出された昭和天皇の御心の奥深くには、盂蘭盆会に対する思いがおありだったのではないかと、私は想像しています。

 そして、毎年お盆の八月十五日に「全国戦没者追悼式」が行われるのは、戦没者たちの御霊が「どうぞ私たちの苦しみを忘れずに、二度と戦争を起こさないでほしい」と訴えている証なのではないかと、私には思えるのです。

 今年四月九日、天皇皇后両陛下がパラオ共和国のペリリュー島を訪ねられ、三十年前に日本政府が建造した「西太平洋戦没者の碑」に花を供え、先の戦争で非業の死を遂げた日本人戦没者を追悼されました。両陛下の太平洋地域における戦没者慰霊は、戦後六十周年の年であった十年前の平成十七年に、マリアナ諸島のサイパン島を訪ねられて以来のことでした。

 十年前、両陛下は、太平洋戦争中に米軍に追い詰められた多くの日本人民間人が、「天皇陛下バンザイ!」と叫びながら断崖から身を投げた、いわゆる「バンザイクリフ」の見える海岸の高台にお立ちになり、真っ青な太平洋に向かって深々と頭を下げられました。今回もまた、「戦没者の碑」の後ろに広がる太平洋に向かい、深々と頭を下げられました。そのお姿には、戦没者慰霊を超えてひたすら平和を願われる、両陛下の深い祈りが込められていました。

 今回、両陛下が参拝された「西太平洋戦没者の碑」は、その碑の名称が示すように、日本人戦没者だけを対象にした慰霊碑ではなく、パラオ諸島など西太平洋地域の戦没者を国籍を問わず対象にしたものです。先の戦争当時、パラオ諸島は日本の統治下にあり、パラオの人たちも大きな犠牲を払いました。また、西太平洋の島々では、日米の兵士のみならず、多くの国々の兵士が非業の死を遂げています。「西太平洋戦没者の碑」は、そうした戦没者を敵・味方の区別なく、平等に慰霊する目的で建造されたものなのです。

 その背景には、仏教の「怨親平等」思想があります。怨親平等とは、「たとえ敵・味方に分かれて戦争をしても、戦争が終わったら、敵・味方の区別なく戦没者を慰霊する。それが戦後の平和の礎になる」という考え方です。日本には、昔からこの仏教精神が根づいていました。だからこそ、武士が果たし合いを行い、勝負がついたときには、勝者は敗者に手を合わせ、慰霊の祈りを捧げて去って行ったのです。

 私は、サイパン島で、パラオ諸島で、天皇皇后両陛下が広大な太平洋に向かって深々と頭を下げて慰霊されるお姿を拝見すると、いつもこの怨親平等の仏教精神を想起し、両陛下は太平洋を超えて、七つの海が平和な海になるよう祈念されておられるのだ、という思いにとらわれるのです。

 両陛下は、サイパン島を訪ねられたときには、米軍の慰霊碑や韓国人の慰霊碑にも参拝されました。今回もまた、「米陸軍第八十一歩兵師団慰霊碑」に参拝されると同時に、昭和十九年に米軍がペリリュー島に上陸作戦を展開し、激戦となって多くの戦没者を出したオレンジビーチを訪ねられ、その砂浜に向かって深々と頭を下げられました。

 戦後七十年の夏、安倍首相が「安倍談話」を出されました。私は、日本の総理としての思いを、長文の「談話」として、ぎりぎりのところまで言及された安倍首相の決断を、「心からのお詫びがなかった」と批判する気持ちにはなれません。むしろ、「安倍談話」は「村山談話」「小泉談話」を越えたと評価しています。

 しかし、安倍首相の「談話」が各方面から批判にさらされている現状を見つめるとき、私は天皇皇后両陛下のパラオでの慰霊の静謐なお姿こそが、戦後七十年の夏を迎えた日本人の心を、何よりも雄弁に物語っていたのではないかと思うのです。

 その慰霊の心は、私の生涯の誓願でもあります。私は日々、大きな火を焚く護摩行を勤めながら、衆生救済、世界平和、国家安泰を祈っております。また、ここ三十年、世界各地のかつての激戦地を訪れ、怨親平等思想に基づいて戦没者慰霊と世界平和祈願を行う、巡礼の旅も続けています。

 私が真言行者として戦没者を慰霊し、世界平和を祈願するようになった背景には、私の少年期の体験が投影されています。

 私の生まれた鹿児島県大隅半島の東串良にあります西大寺は、串良、鹿屋特攻隊基地にほど近い場所にあり、私が小学生だった頃、出撃を控えた若い隊員たちが、最後のお参りに来ていました。鹿児島県には知覧という有名な特攻隊基地もありましたが、私が生まれ育った東串良周辺には、鹿屋基地の出先施設のような小規模な基地がいくつもあり、そこで訓練を受けていた特攻隊員たちが、私の寺にお参りに来ていたのです。

 彼らは参拝のあと、小学生の私の頭をなでながら、笑顔で「坊や、大きくなったら靖国神社に来いよ、兄ちゃんたちは靖国神社におるからね」と言って、私の手を強く握りしめて、去って行ったのです。

 出撃の日、特攻機が私の寺の上空に来て、別れを告げるかのように、低空で旋回したり翼を揺らせたりしながら、南の空に向かっていったことを、私は七十年経った今でも鮮明に憶えています。私の戦没者慰霊、世界平和祈願は、ここに源流があるのです。

 靖国神社は、戊辰戦争戦没者を祀るために創られ招魂社が前身です。徳川幕府を倒すために軍を起こして勝利した薩長を中心とする官軍側の戦没者を慰霊していますから、靖国神社の参道の真ん中には、長州藩兵を率いた大村益次郎の像が高く屹立しています 。坪内祐三さんの 『靖国 』には、大村益次郎が九段に靖国神社を造営したのは、九段が徳川幕府の江戸城や彰義隊が立て籠もった上野の山を睥睨するように見下ろせる場所だったからだ、という意味のことが書かれています

 靖国神社は戦没者を祀る神社として創られたのですが、戊辰戦争や西南戦争で「賊軍」として戦死した犠牲者たちは祀られていないのです。戊辰戦争において官軍に徹底して抵抗したのは会津藩で、少年たちで組織された白虎隊の悲劇は有名です。明治維新後、会津藩の旧藩士とその家族、一万七千人が下北半島に移住させられ、中にはあまりの過酷な生活に耐えきれず、最後はアメリカに安住の地を求めた人もいたと言います。この戦いで、官軍は路傍に斃れた会津藩士の遺体を弔うことを禁じました。そのため、会津側の戦死者は野ざらしのまま打ち捨てられたのです。

 そして、戦没者を慰霊する靖国神社が創られてからも、会津の戦没者は祀られていません。いまも福島県の人たちの薩長に対する感情には厳しいものがあります。福島の人たちの心の奥深くでは、戊辰戦争はまだ終っていないのです。まだに、福島県を訪れた鹿児島の人が、「私は鹿児島出身です」とはどうしても言えなかった、という話も珍しくないのです。

 靖国神社に祀られなかったのは会津だけではありません。戊辰戦争で賊軍とされた長岡藩や東北列藩同盟として戦って散った戦没者の霊も同様です。私は、戊辰戦争で賊軍の汚名を着せられて亡くなった戦没者も、官軍の名の下で戦って散った人々とともに祀っていただきたいのです。賊軍と罵られ無念の思いを抱いたまま亡くなった人たちの霊も一緒に祀ることが、改めて本来の日本という国柄をかたちづくると確信しています。

 靖国神社には、毎日たくさんの参拝者が訪れます。日々絶えることのない参拝者によって、同じ日本人同士で戊辰戦争を戦った百五十年の怨念はきっと消えるはずです。そして、東北諸藩の末裔たちの心にも必ず平和が訪れることになるはずです。近代日本の最後の内戦である西南戦争も、西南戦争に先立つ各地の反乱も同じです。賊軍とされた西郷隆盛以下、戦没者すべての御霊を、日本全体で慰霊することが 将来の幸せな日本につながるのです。

 明治維新の立役者でありながら、最後は「反逆者」の汚名を着せられた西郷隆盛は、「敬天愛人」(天を敬い人を愛す)と教えています。天に畏敬の念を持ち、天に恥じない言動を行いながら、国民を愛し、国民の幸せのために、真言密教で言うところの身口意、すなわち身体と言葉と心をフル回転させることこそ、時代を超えて求められる日本人の生き方なのです。

 私は、日本が真の再生を成し遂げるためには、西郷さんが説かれた「天を敬う」気持ちを、日本人が取り戻さなくてはならないと考えています。昔の職人さんは、大工さんにしろ、瓦屋さんにしろ、左官屋さんにしろ、畳屋さんにしろ、自分の仕事に誇りを持っていました。そして「お天道さまが見ていらっしゃるから、下手な仕事はできない」と言って、一生懸命、天に恥じない仕事をしたのです。そこには、カネ儲けのために手抜きをするという発想は、微塵もありません。職人のプライドが許さなかったのです。

 そういう職人さんがごく普通に存在していた社会では、一般庶民もまた、お天道さまが見ているから悪いことはできない、という常識を持ち合わせていました。つまり、一般社会から商売の世界まで、人間として守るべき道徳、商人として守るべき商道というものが厳然として存在し、立派に機能していたのです。

 ところが、戦後七十年、日本人は政治家から一般庶民まで、自分たちの行いをお天道さまが見ていらっしゃるということを、すっかり忘れてしまっています。古来、日本人が持ってきた、「お天道さまが見ていらっしゃるから悪いことはできない」という考え方は、目に見えないものを畏敬して生きることであります。

 「おかげさま」と日本人は言います。「陰ばたらき」「縁の下の力持ち」などと、かつては表舞台で活躍する人や状況を、陰から支える人たちや組織を大事にしてきたのが、日本の伝統でありました。最近はどうでしょうか。目の前のことばかり気にして、周囲の状況を見ようとしない人が増えました。私たちはともすれば、目に見えているものが全てだと考えがちですが、私は目に見えているのは真実の一〇%にも満たず、残りの目に見えない九〇%以上に、私たち人間は左右されているのではないか、と考えています。

 目に見えない部分というのは、人智を超えた存在に対する敬虔な気持ち、他の動植物、自然に対するやさしい思いやりの心、先祖に対する感謝の気持ち、親兄弟、隣人、友人に対する敬慕の気持ち、祖国、郷土に対する愛情など、おカネでは買えない、モノには代えられない心や気持ちのことです。私は、日本人がそうした伝統的な心を取り戻さない限り、真の日本再生も、地方創生も「砂上の楼閣」に終わるのではないかと危惧しています。

 いずれにせよ、身を犠牲にして自分たちの国、故郷、友人や肉親を守ろうとした特攻隊の「兄ちゃん」たちが靖国神社にいるのだと、私は子供心に胸に秘めてきました。しかし、戦後になって靖国神社はいつしか政治問題化し、戦没者慰霊の祈りの本質を見失いかけています。昭和五十三年にA級戦犯が靖国神社に合祀されて以来、天皇陛下の靖国神社へのご参拝は行われておりません。また、近隣の中国・韓国の強い反発から、首相や閣僚の参拝が毎年のように問題視されているのが現状です。

 その現状に手をこまぬいているだけでは、問題は解決しません。天皇陛下から一般国民まで、戦没者や戦争犠牲者を慰霊する心を持つ人々が、心置きなく参拝することができる形をつくるために、政治家も役人もマスコミも国民も、真剣に智慧を絞らなければならない、と私は思うのです。

 国民が国のために犠牲となった戦没者の霊を慰めることは当然のことであり、世界各国の共通認識です。終戦直後、GHQ総司令官マッカーサーが、日本が再び連合国の脅威にならないよう、日本の国体を徹底的に弱体化するために、日本人の愛国心、大和魂の根源を断つべく、靖国神社や明治神宮、熱田神宮、伊勢神宮などを焼き払おうとしたとき、当時、日本に駐在していたローマ法王庁のブルーノ・ビッター神父が、次のようにマッカーサー総司令官を説得したのは、有名な話です。

 「英霊を祀る靖国神社を焼き払うような暴挙は、米軍の歴史に不名誉な汚点を残す犯罪行為になる。いかなる国家も、その国に殉じて死んだ人々に対しては敬意を払う権利と義務がある。それは戦勝国、敗戦国を問わず、万国共通の真理でなければならない」

 だからこそ、各国元首や指導者たちが外国を訪問したときに、その国の戦没者に敬意を払い、慰霊の地に参拝することが一つの儀礼になっているのです。しかし、日本の場合、それに相当する「場」がないのです。

 私は、平成四年、ハバロフスク郊外の日本人墓地で、シベリア抑留の犠牲者の供養を行った際、犠牲者の御霊を鏡に映して持ち帰り、真言密教の修法で靖国神社にお納めしたことがあります。靖国神社で仏式の戦没者慰霊の祈りが捧げられたのは、初めてだということでした。その後も、アジア各地で日本人戦没者の慰霊を行ったときには、必ず戦没者の御霊をお連れして、靖国神社にお納めし慰霊しています。

 私の胸には、「兄ちゃんは靖国神社におるからね」と言って笑顔で別れを告げていった特攻隊員たちの面影が、いつまでも生きているのです。だからこそ、靖国神社が外交や政治の「手段」となってしまっていることに、大きな悲しみを抱いてきたのです。

 決して靖国神社を否定するのではなく、新たな戦没者慰霊の「場」を造り、誰もが心の赴くままにお参りできる「戦没者慰霊の聖地」としたい。そして、これを大きく包み込んで、死者も生者も心癒される拠り所を造りたい。私は馬齢を重ねるにしたがって、その思いを強くしてきたのです。

 二〇一三年春、私は、靖国神社からほど近い千代田区富士見の朝鮮総連本部ビルの競売に応札し、一旦、落札致しました。しかし、資金調達が不調に終わり、結局、断念に追い込まれたことは、私にとっては本当に痛恨の極みでありました。

 その後、朝鮮総連本部ビルは二回目の入札で二番札だった、四国の不動産会社が落札した後、ビルは山形県の不動産会社に転売されました。その資金は朝鮮総連が管理する施設の管理会社が出したと言われ、結局、朝鮮総連本部ビルは、以前と同じく朝鮮総連が入居を続けている状態であります。

 私が朝鮮総連本部ビルの入札に参加したのは、同ビルが北朝鮮の駐日大使館の役割を果たしており、民間不動産会社が落札して再開発にでも乗り出したら、日朝関係は決定的に悪化し、大変な事態になると憂慮したからでした。

 私は当時、四年間に五回、北朝鮮を訪問し、日朝国交正常化、拉致問題の解決などを胸に秘めながら、仏教者の立場から日朝関係の改善に努めておりました。そして、訪朝のたびに、北朝鮮の高官から、「大使館である朝鮮総連本部ビルの競売は、わが国に対する宣戦布告と見なす」と言われていました。だからこそ、私は日朝関係の破局を心配し、仏教者として勇気を奮い起こして、確実に落札できる金額で応札したのでした。

 しかし私は、北朝鮮の駐日大使館である朝鮮総連本部ビルを、そのまま残すことだけを考えていたわけではありません。私は朝鮮総連本部ビルの将来展望として、先ほどの靖国神社問題を解きほぐす構想を考えていたのです。

 それは、靖国神社に隣接する富士見の朝鮮総連本部ビル七百坪とその周辺の千五百〜二千坪の国有地を一体化して再開発し、広く戦没者を慰霊し世界平和を祈念する、慰霊と平和の公園を造るという構想であります。

  そういう施設を靖国神社の隣接地に造れば、天皇皇后両陛下をはじめ総理大臣、海外からの国賓など、いつでも誰でも、自由にお参りできるようになるのです。しかも隣接地には靖国神社があり、「靖国神社で会おう」と言って死地へ赴いた戦没者たちの霊も慰めることができるのです。

  朝鮮総連ビルが単に民間に払い下げられ、再開発されるのではなく、国家の事業に斃れた人たちの御霊を慰め、世界平和を祈るための施設を造るという構想を国家プロジェクトとして計画し、日本政府が北朝鮮側に意を尽くして説明すれば、おそらく朝鮮総連や北朝鮮の人たちの理解も得られるであろうと思うのです。

 朝鮮総連ビルの代替地は、日本側が斡旋することが妥当でありましょう。朝鮮総連の方たちがこだわりのない気持ちで、名誉ある撤退ができるような環境をつくることによって、本当の意味で、清浄な聖地とも言うべき「戦没者慰霊・平和祈念公園」ができ、真の慰霊ができるようになるのです。

 今、私の気持ちの中には、そういう戦没者慰霊と平和祈念の「場」を朝鮮総連ビルを中心にした富士見の地に造るべきだという思いが、心の奥底から大日如来のように強く立ち上がってきているのです。

 最近、二〇二〇年の東京オリンピック・パラリンピックを五年後に控えて、新国立競技場の建設費問題が突然、クローズアップされ、安倍総理は「ゼロベースからの見直し」を決断されました。いまさら東京五輪を返上することは、戦前の事実上戦争状態に入っていた時代ならいざ知らず、現代においては、自然災害などでよほどの事態にならない限り難しいでしょう。東京五輪のメイン会場となる新国立競技場は何があっても建設せざるを得ないのです。

 立派な見栄えのする競技場を造る資金がないのであれば、できるだけコストのかからない工法で、条件を満たすスタジアムを建設するしかないのです。五輪後にコンサートなどイベント会場として使用できるよう、アーチ式の開閉式屋根をつけるなどという余計なことを考えずに、五輪の開会式、閉会式ができ、陸上競技のメイン会場となるスタジアムの建造に、全身全霊で取り組んでもらいたいと思います。

 それにしても、当初公表された二千五百億円という建設費は、これまでの五輪のメインスタジアムの建設費が、いずれも一千億円以内に収まっていたのと比較して、あまりにも巨額過ぎました。高度経済成長時代ならともかく、国家財政は一千兆円の借金を背負い、東日本大震災からの復興もまだ緒についたばかりの状況です。いかに国家の威信をかけた五輪だとしても、カネに糸目をつけないで新国立競技場を建造する余裕はないはずです。

 私は、当初の二千五百億円という建設費を聞いたとき、とっさに私が構想している「戦没者慰霊・平和祈念公園」のことを想起しました。新国立競技場にそれほど巨額の国家予算を投じる余裕があるのなら、その費用の一部を、国に殉じて非業の死を遂げていった戦没者の慰霊を行いながら、怨親平等の心で世界平和を祈念する公園の建造に回した方が、よほど有益ではないかと。

 新国立競技場が建設される場所は、昭和十八年十月十五日、土砂降りの雨の中で、学徒出陣の壮行会が行われた場所でもあります。戦況が悪化する中で、次代を担うべき学徒たちが戦場に送られ、非業の死を遂げていったのです。その戦没学徒たちは戦後、十分慰霊されてきたでしょうか。

 戦没学徒の慰霊は各大学で行われているようです。立命館大学の「わだつみの像」や、慶應義塾大学の「わだつみの声」像がよく知られていますが、今やその意味も知らない学生が少なくないと言います。昭和四十年代半ば、全国の大学で全共闘運動が燃え盛っていた頃には、学徒動員された学生も結局は戦争に加担したのだ、慰霊碑は戦争を美化するものだと批判の対象になり、立命館大学の「わだつみの像」が破壊されたこともありました。

 戦時中、学徒出陣の壮行会が行われ、高度成長時代にアジア初の東京オリンピックが開催され、五年後には装いも新たな新国立競技場で、二回目のオリンピックが開催される神宮外苑から、靖国神社に近い富士見の地まで、直線距離にして約三〜四キロです。

 五十年前の東京五輪のときには、東海道新幹線が開通し、都心部の高速道路網の整備が始まりました。その遺産は半世紀後の今日も、大きな役割を果たしています。五年後の東京五輪に向けて、競技場や選手村の整備はもちろん不可欠ですが、私は日本国民の精神的な絆を再確認するために、東京五輪を機に、都心の富士見の地に、国立の「戦没者慰霊・平和祈念公園」を造ることを提言したいと思います。

 それは、朝鮮総連本部ビルの将来的な方向に関係し、ひいては日朝関係正常化、拉致問題の解決をも展望するものになり、さらには北東アジアの平和に寄与するものになると、私は考えています。

 私の戦没者慰霊の祈りは、仏教の怨親平等の教えに基づく行動です。繰り返しになりますが、怨親平等は、敵・味方の区別なく戦没者を慰霊することが、その後の平和につながるという、仏教の根本思想です。首都の真ん中に位置し、かつては霊峰富士を眺められた聖地である九段・富士見の地こそ、国営の「戦没者慰霊・平和祈念公園」にふさわしいと、私は確信するのです。

  かつての日本では、仏教の怨親平等思想が国家の外交の中でも活かされておりました。第二次大戦末期、日本の敗色が濃くなっていた昭和二十年四月十二日、敵国米国のフランクリン・ルーズベルト大統領が病死します。

 ときの鈴木貫太郎首相は、ルーズベルト大統領死去の報道を知ると、同盟通信社の短波放送を通じて、「今日、アメリカがわが国に対し優勢な戦いを展開しているのは、亡き大統領の優れた指導があったからです。私は深い哀悼の意をアメリカ国民の悲しみに送るものであります。しかし、ルーズベルト氏の死によって、アメリカの日本に対する戦争継続の努力が変わるとは考えておりません。我々もまたあなた方アメリカ国民の覇権主義に対し今まで以上に強く戦います」という談話を世界へ発信したのです。

 同じ頃、敗北寸前のナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーも、ラジオ放送を行っていますが、鈴木首相とは対照的に亡くなったルーズベルト大統領を口汚く罵ったのです。

 当時、アメリカに亡命していたドイツ人作家トーマス・マンは、鈴木首相の放送に深く感動し、英国BBC放送で、「ドイツ国民の皆さん、東洋の国日本にはなお騎士道精神があり、人間の死への深い敬意と品位が確固として存する。鈴木首相の高らかな精神に比べ、あなたたちドイツ人は恥ずかしくないですか」と声明を発表し、鈴木首相の武士道精神を称賛しました。鈴木首相の精神の高さを示したルーズベルト大統領を追悼するメッセージは、戦時下の世界に感銘を与えたのでした。

 ひるがえって、今日の日本の政治家はどうでしょう。二〇一一年十二月十九日、北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)総書記が急逝しました。当時、日本は民主党政権時代で野田佳彦首相でしたが、日本政府は二〇〇六年から実施中の制裁措置を盾に、許宗萬(ホ・ジョンマン)朝鮮総連議長が、葬儀参列のために北朝鮮に行くことも再入国することも、認めなかったのです。

 年末に金総書記が亡くなった二〇一一年は、三月十一日に東日本大震災が起きた年でした。そのとき北朝鮮は、日本から制裁措置を受けているにもかかわらず、いち早く見舞い金と見舞いの言葉を贈ってきました。私は金総書記が亡くなったとき、日本政府関係者が誰も朝鮮総連へ弔問に行っていないと聞き、十二月二十八日に東京千代田区富士見の総連本部へ、仲間の僧侶や弟子たちを伴って弔問に訪れ、慰霊の読経を上げて参りました。その時のビデオテープは北朝鮮で一週間放映されたと言います。私は翌年の一周忌の供養も、総連本部へ行って厳修して参りました。

 七十年前の日本の総理は敗戦濃厚な戦時下にあっても、敵国の大統領の死を悼み、弔いの言葉を贈る矜持を持ち合わせていました。しかし、戦後日本は七十年の間、戦没者慰霊も怨親平等思想も半ば置き去りにしたまま、高度経済成長を追い求めてきた結果、いつしか社会はモラル・ハザードに陥り、国家指導者も対立状況にある国の尊厳を思いやる、心の余裕を喪失してきたのです。

 私は十八年前から毎年十月二十五日に、昭和十九年に特攻隊の一号機が飛び立った、フィリピンのマバラカット市で特攻隊慰霊祭を行っています。これは、マバラカット市長をはじめ現地の方々も大勢参加する恒例行事になっていますが、私はこれによってマバラカットの名誉市民にしていただきました。

 私がなぜこの慰霊祭を始めたかと言えば、戦後、日本が頼んだわけでもないのに、現地の方々が特攻隊の犠牲的精神を尊いものと賞賛され、自ら率先して「神風神社」を建立して、非業の死を遂げた特攻隊員たちの供養をしてくださっていたからです。

 私は初めてその話を聞いたとき、これこそ仏教の怨親平等の教えの実践ではないかと大いに感激し、それ以来、毎年十月二十五日にはマバラカット市の神風神社を訪れ、現地の人たちとともに怨親平等思想に基づいて戦没者を慰霊し、世界平和祈願の祈りを捧げているのです。

 国家で激しい論戦が展開された安全保障関連法案が成立すれば、自衛隊の海外での活動は大きく拡大していきます。そこには自衛隊員の「戦死」というリスクも想定されることになります。万一そのような事態になったとき、尊い犠牲を払った彼らの霊は、どこに祀られるのでしょうか。

 現在は、殉職した自衛官は各地の護国神社に祀られ、合祀申請は自衛隊協力の下で、社団法人隊友会により行われているそうですが、クリスチャンの遺族の訴訟も起きたと聞いています。国としての方針がどのようになっているのか、気になっています。だからこそ、「戦没者慰霊・平和祈念公園」が必要になってくると、私は確信しているのです。

 日本のために戦って非業の死を遂げた戦没者は、日本のお国柄を形づくっている伝統的な精神・道徳などとともに、この国の根っこでございます。根っこを大事にしない国は、やがて根腐れして倒れていく大木のように、亡国の道を歩むことになるのです。戦没者の御霊を大事にし、きちんと供養し慰霊することが、この国と国民の平和と幸せにつながる、というのが私の信念です。いちばん大事なことは、戦没者や戦争犠牲者、伝統的精神・道徳といった、この国の根っこを大事にすることであります。

 このことを念頭に置いて、私は今後とも戦没者慰霊と世界平和祈願の祈りを継続しながら、何としても東京都心の富士見の地に国営の「戦没者慰霊・平和祈念公園」を造営するため、真言密教で言うところの身口意、すなわち身体と言葉と心をフル回転してまいる所存でございます。

 皆さま方のご支援・ご協力を心よりお願い申し上げます。

                           合掌

 

             高野山真言宗伝燈大阿闍梨

             百萬枚護摩成満行者

             高野山別格本山清浄心院住職 

                       大僧正  池口 惠觀